第8章 入学手続きの届出
アリシアが入学手続きを終えると、後方支援の担当教員が寮の案内を買って出た。
王立学院の個室は、寝室に小さな居間、浴室まで揃った一室一間取り。採光もよく、家具は一式、寝具まで新品に替えられていて、鞄ひとつで暮らし始められる。今は空きが5室あるらしく、好きに選んでいいという。
アリシアは一部屋ずつ覗いていった。三つ目の前に来たところで、足がわずかに止まる。
湖に面し、階段のすぐ脇――前の人生で、自分が使っていた部屋。
ふっと、いくつかの場面が胸の奥から湧き上がり、理由もなく息が詰まった。二、三度目をやっただけで視線を外し、そこは通り過ぎる。廊下のいちばん奥、反対側を向いた部屋へまっすぐ向かった。
「……ここにします」
階段から最も遠く、窓は外向きで湖は見えない。その代わり、いちばん静かだ。
あの部屋には、思い出したくない記憶が詰まりすぎている。やり直すのなら、わざわざ同じ角に戻る必要はない。新しくて、清い場所を選び、過去の不出来な自分ごと、古い部屋に置いていけばいい。
担当教員は少し意外そうに彼女を見たが、深くは訊かなかった。
もし部屋が気に入らなければ、新学期が始まった後に他の者と相談して部屋を交換しても構わない、とだけ言い含めた。
アリシアは礼を言い、部屋番号を覚えた。
王立学院の個室は毎年ほぼ満室で、空きが出るのは卒業生が去った直後くらいだ。公爵家が事前に話を通していなければ、この5室も開学前に上級生の部屋替えで埋まっていただろう。
「個室」とは言っても手狭ではない。寝室、小客間、浴室がそれぞれ一部屋ずつで、小貴族の屋敷の一角にある套間に近い。学費が高いぶん寮費も数百、時に千金貨単位で取るのだから、設備が整っていて当然だ。もっとも人数の多い8人部屋ですら二段ベッドではなく、各人に寝台、机、鍵付きの小さな区画が与えられる。
前世で何年も住んだアリシアにとっては、懐かしいほど見慣れた快適さだった。
侍女たちが大きなトランクをいくつも抱えて、ぞろぞろと部屋へ入ってくる。手分けしてベッドを整え、家具を拭き、衣類を収め、窓を開け放って風を通し、こもった匂いを追い払った。ルナはあちこち走り回り、片付けが終わると誰かを使用人としてお嬢様のお出かけに同行させようとしたが、アリシアにきっぱりと拒絶された。
そして、少しだけ笑う。
「静かなほうがいいの」
自分は手を出す余地もない。だから先に図書館を見てくると言い、ひとりで部屋を出た。
明日が正式な登校日で、今の校内にはほとんど人がいない。王立学院は敷地が数百ヘクタールもあるのに、教職員と学生を合わせても数千人程度だという。空いた土地の大半には木々や花草が植えられ、まるで絵画のように整えられていた。
アリシアは記憶を頼りに近道を選び、図書館へ向かう。威容を誇る本館と、その裏手の食堂を横切り、遠くに運動場脇の厩舎が見えた。戦士系の騎士科の学生は馬なしでは話にならない。さらに奥へ進むと、三系統の寮が小さな林で区切られており、魔法科の寮の裏には小さな湖が隠れるように広がっている。
本当は魔法実験棟へ行きたかった。学院の北西端、他の建物から離れた場所にぽつんと建つ、あの建物だ。魔法実験は危険で、騒ぎも大きいから、わざわざ最も辺鄙な場所に置いたのだと聞く。
だが新入生は、該当の授業が始まるまで立ち入りができない。まだ正式な開学前でもあり、門は固く閉ざされ、守衛すらいなかった。
少し離れた場所から建物を眺め、アリシアは名残惜しそうに踵を返す。とはいえ、分かっている。新学期が始まって資格さえ満たせば、あの扉はいずれ自分に開く。
図書館のほうは開いていた。王立図書館はサン・ロット帝国でも屈指の蔵書を誇り、魔法関連の書だけで丸々一階層を占める。ほかではまず見られない規模だ。
アリシアは今日の手続きで、錬金術で作られた学生証を受け取っている。それを提示し、保証金として100金貨を預け、魔法書まで借りられる貸出証を作った。一般書の貸出証は10金貨で済むのに、魔法書のほうはその10倍――それだけ管理が厳しいのだろう。
司書は念を押す。
「紛失・破損にはお気をつけください。再発行は10金貨いただきます」
アリシアは興味を引かれた一冊を選び、席に着いて読み始めた。
二つの世界の魔法には、それぞれ長所と短所がある。その差異こそ、彼女が二度の人生を通して最も惹かれてきた研究対象だった。こちらの世界の魔法水準は、前世の世界に及ばない。だが、こちらにはこちらの強みがある。学べる点も、決して少なくない。
ページをめくりながら、帰ったら試せる配合を頭の中で組み替えていく。気づけば時間が溶け、ルナが探し当ててくるまで、もう夕刻になっていた。
「お嬢様、そろそろお戻りを」
アリシアは本を閉じ、階下で貸し出し手続きを済ませ、読みかけの一冊を持ち帰ることにした。数日はこれで、知らない知識の筋道を先に整えておきたい。
今日は手続きだけで、寮には泊まらない。始業日には父と兄が必ず自ら彼女を学院へ送ってくるはずだ。それは体裁のためだけではない。公爵令嬢が家でどれほど重んじられているかを、周囲に示す意味もある。
それに――今日届けた衣服は、すでに父と兄の手元にある。二人の胸の内には、きっと質問が山ほど溜まっているだろう。
馬車が公爵邸へ入ると、すぐに使用人が駆け寄ってきた。
「公爵様と若旦那様が、すでにお戻りでございます」
食卓につくなり、エイモスが彼女を見るなり笑った。
「妹よ、お前が寄越したあの服、最高に楽だ!」
兄は獅鷲軍団の百人隊長で、百騎の騎兵を率いる立場だ。日々の訓練で鎧は重く、蒸れて息苦しい。
彼は蜘蛛糸の下着を鎧の下に着込み、襟元から白い布地を少し覗かせながら、身振り手振りで今日の訓練を語り始めた。
「鎧の下に着て一日回したんだが、暑さをまるで感じなかった。訓練が終わっても服はさらさらで、髪の毛一本濡れてない。俺の部下なんて、鎧を脱いだら汗だくだ。なのに俺だけ涼しい顔してたもんだから、目ん玉ひん剥いてたぞ」
アリシアは兄の襟元の白を見て、口元をわずかに上げた。
「それなら良かった。温度調整と清浄の陣は、鎧の内側にこそ向いてるもの」
「だろう!」とエイモスは膝を叩く。
「そこで聞きたいんだが――この陣、鎧そのものや武器にも入れられるのか? それと馬具だ。俺の軍馬にも一式欲しい!」
彼は昔から少し潔癖で、訓練後に汗でべたつくのが何より苦手だった。今の服で、ようやく地獄から解放されたらしい。
だがエイモスが言い切る前に、公爵が軽く咳払いをした。視線が上がり、表情は読めない。
公爵は食卓で「用件」を語るのを好まない。家の者もその規律を知っている。
「話があるなら、食後にしろ」
エイモスはぴたりと口を閉じ、妹に向かって肩をすくめると、片目をつぶってみせた。――あとで、という合図。
アリシアも察して、それ以上は触れず、家族は静かに食事を終えた。
食後、公爵はナイフとフォークを置き、二人の子を見据えた。厳めしい声。
「アリシア、エイモス。二人とも書斎へ来い」
「はい」
アリシアは立ち上がって後に続く。伏せたまつげが、目の奥の理解を隠した。
蜘蛛糸布と、あの魔法陣の出どころ――いずれ問われる。だから前をもって完璧な言い訳を用意した。今夜こそが本題だと、彼女は分かっていた。
そして彼女の手元には、ちょうど使いどころを待っている「物」がある。長く埃をかぶっていた古い手記。父の目を誤魔化せるかどうかは、今夜次第。
アリシアは息を整え、書斎の扉を叩いた。
